①祖先祭祀や孔子礼拝に悩まされた中国宣教
宣教師の1番の悩みは、既存の文化や習慣がある地域に新しい福音をどう伝えるかという悩みです。宣教の方法は大きく2つに分けられます。現地の風習などをある程度受け入れる「順応主義的な立場」での宣教と、聖書の原理原則を貫く「原理主義的な立場」での宣教です。中国では日本に宣教師が入国する900年近く前に、景教(ネストリウス派←後にカトリックから異端とされる)」が伝来しました。景教がほんの少しだけ翻訳した聖書では「デウス」は「天尊」と翻訳されていました。
その後、中国でも少しずつ宣教活動が広まり始めた1630年ごろ、中国で「典礼問題」が発生します。布教活動中、イエス様を信じる者は現れるものの、なかなか洗礼を決断しない者が現象が起こり始めたのです。その問題の根底には、現地の人々が抱える大きな悩みがありました。当時、中国では祖先を拝礼する祖先祭祀や孔子を拝礼する行事が行われていましたが、キリシタン信徒になれば、それを拒まなければなりませんでした。当時、中国宣教で大きく活躍していたイエズス会は祖先祭祀や孔子礼拝を認める「順応主義的な立場」で宣教を行いました。またイエズス会は当時、中国で古来から用いられて来た「上帝」を「デウス」の翻訳語として用い、宣教を拡大していきました。しかし、一方でその他の修道会は反発。宣教の拡大は良いけれども「聖書の原理原則」に従って行われなければならないと主張しました。
この問題は大きくなり、ローマ教皇に問題を提起するまでになりました。1715年、教皇クレメンス11世は、この「典礼問題」に対して、最終的な見解とも言える「エクス・イルラ・ディエ」を発布しました。その文書では「デウス」は天の主を意味している「天主」を用いることと至高の皇帝を意味する「上帝」の名は使用してはならないと命じました。
しかし、その後も順応主義で宣教する宣教師の文章には「上帝」や「神」と言われる現地の文化を最大限取り入れて翻訳された言葉が散見されます。
神の名の再検討「中国と日本の伝道」