①日本の「神様」との出会い

2012年の三重県への宣教旅行で、日本の「神様」に会いに行く機会が与えられました。日本の「神様」の最高峰と呼ばれる天照大御神が祭られている伊勢神宮に行くことができたのです。日本では、約1億人以上が信じていると言われる天照大御神です。緊張感を持って伊勢神宮に向かいました。伊勢神宮に入る前に、皇学館大学にある神道博物館も見学することができました。しかし、その博物館で聞いた「神様」の姿は私がイメージしていたものとはかけ離れたものでした。

神道博物館では学芸員の方から、日本人が崇拝する天照大御神という「神様」についての説明を聞きました。しかし、その説明は天照大御神に関する説明というよりは、天照大御神を人間がどのように祀っているかの説明がほとんどであったと記憶しています。例えば、お供え物に関して、お供えをする時には「これはOOというお供え物です」という事を「神様」にお知らせするために、魚などのお供えをする時には、必ずお供え物の上に魚の背びれを乗せたりするというのです。その他の生き物の捧げ物に関しても似たような事が行われました。また、「神様」は、舶来物がお好きとの事で、海外からの物が手に入るとまっさきに「神様」にお捧げするのだと説明してくださいました。

しかし、そのような説明を聞きながら、もし、天照大御神が本当の神で、創造の神ならば、私たち人間よりも被造物についてよくご存知であり、わざわざ人間がお供え物をする時に魚の尾をつけてお供物の名前を教える必要はありませんし、舶来物が好きな神とは崇高な信仰の対象とは到底思えなくなってしまいました。

博物館の展示物も学芸員さんの説明も、いったい天照大御神がどんな神で、どんな力を持っていて、どのようなご性質なのかという説明ではなく、人間がどのように天照大御神を祭ってきたかという、まさに人間が作り上げた最高の偶像礼拝を説明する場のように思えてしまいました。

②人間が作り上げられた「神」か、全てを造られた「創造者」か

「神」という存在について、聖書はまったく反対のことを語っています。聖書を見ると、聖書が語らんとするお方がどのような方なのかを具体的に知ることができます。聖書では、人間がどのように神を作り上げてきたのかではなく、「創造者」がおられ、どのようにこの世界を造られ、人間を造られたのか、そして造られた世界をどのようにされるのかがはっきりと、詳しく語られています。伊勢神宮を訪問する旅を通して、天照大御神は、全てを造った「創造者」的な存在ではなく、人間が祭り上げている「造られし存在」である事がはっきりと分かりました。

このようにして、「神」が造られし存在であるのに対し、聖書の主は、全てを造られたお方である事がはっきりと対照的に分かるようになり、私の中に「では、この聖書が示しておられるお方を同じく『神」と表現し、日本人が想像する八百万の神と同じ名前・同じ発音・同じカテゴリーの中でお呼びする事が、果たして正しいのだろうか」という思いになりました。

この体験を通して「神の名の再検討が必要ではないのか」と以前よりおっしゃておられた堀越暢治先生の思いに同意し、自分なりにも研究したいという思いが与えられたのでした。